Monday, 23 April 2018 06:00

Restauration of Contemporary Art 2

Symposium 2004 Osaka
谷村  私は洋紙の保存修復家です。これまで主に版画や水彩画、素描、ドローイングといった作品を修復してきました。コンテンポラリー・アートと呼ばれているものは、私たちの観点からすれば大きく二つに分けることができます。一つは従来の技法で作られている作品、例えばカンバスに絵の具で描かれた油絵、木や金属で作られた彫刻、あるいは紙にインクや水彩というかたちの、従来の方法で作られた作品です。そのうえで具体とか抽象といった作品のイメージが現代アートである場合ですね。こうした場合の保存・修復は、私たちとしては何をどういうふうに修復すればいいのかわかるわけです。使用されている紙や油絵の具が何であるのかということも、私たちは知識として知っています。
 ところがもう一つのほう、デュシャン以降から始まった「本物の現代アート」と言うべきものは、技法にも材料にも際限がない。私たち修復家にとって、こういったものを修復するのは、本当にnightmare(悪夢)です。デュシャンの遺作の人体模型は豚の皮でできていて、すごい照明が当てられていますから、ものすごい勢いで劣化していくでしょう。それで平芳さんのお話は、「もうお手上げだな」という感じで聞かせていただきました(笑)。
 それから、《大ガラス》の油絵の具はガラスのあいだに挟まれていますが、油絵の具は大体百年ほど経ってから定着します。レンブラントの作品は、描かれた当初、背景がもっと明るかったんです。あの暗い背景は、今はほとんど何も見えないですけど、レンブラントが描いた時代には、おそらくもっと色々なものが見えただろうと言われています。百年経って定着したあとの作品を、レンブラント本人は知らないわけです。《大ガラス》も、百年経って定着する色ですから、ある意味では劣化と言えますし、油絵の具そのものの性質であると言うこともできます。現在ミクスト・メディアの作品などが出てきて、私たちの仕事ではそういった作品に対する対処法が無くて、今まで以上に一つ一つの作品に対処していくほかない、というのが現状です。
 紙の修復家として言えば、デュシャンは非常にいい紙を使っていると思います。《グリーン・ボックス》や《ホワイト・ボックス》には走り書きやメモがたくさん入っていますが、紙が痛んでいるという感じはまったく無い。せいぜい一、二年経ったくらいにしか見えないと思うんです。《トランクの中の箱》については国立国際美術館で展示されたものと、他の日本の美術館のもの一つと、それから今年の春三カ月間ほどアムステルダムの市立美術館に行って、一九五四年にデュシャンに直接依頼して作ってもらった箱を、ほんの少し修復しました。オランダのものも紙の劣化もなく、とてもいいんです。ただし少し気になるのは、デュシャンが黒い紙に自分の作品を貼り付けて再制作したものを見ると、百枚から百五十枚の紙のほとんどは痛んでいないのですが、デュシャンは木枠というか、箸くらいの木の棒を箱に取り付けているんです。残念ながら木は、どんなに古くなっても木酸と呼ばれる酸が出るため、木に接触している部分が茶色く劣化しています。それとこれは非常に残念なことなんですが、デュシャンは作品を貼り付けるのにセロテープを使っています。このセロテープというのは、私たち修復家にとって一番の悪夢です(笑)。最初はねちゃねちゃ、少し時間が経つとパリパリになって、紙にひっつくか浸透してしまうと、除去するのは本当に大変です。完璧に取れることはないですし、ある程度取れたとしてもその部分には残留物質が残って、早く劣化してしまいます。
 デュシャンは非常にシャープな頭の持ち主で、彼自身が劣化しない良い素材を使っているにもかかわらず、私が非常に残念なのは、画廊や美術館の人たちがそれを額装することによって作品が悪くなります。というのは一九九〇年代初めまで紙の作品は、額装するときにマットというものを入れていました。これは作品のイメージの部分だけが見えるように厚紙に窓をあけて、余白部分を隠すためのものです。日本ではこのマットが一九九〇年代初めまですべて酸性のボール紙でした。このマット紙が作品を劣化させます。それから額装に使われる裏板はベニヤ板です。ベニヤ板は、薄いラミネートされた木を接着剤で何枚も張り合わせてできています。この接着剤からホルムアルデヒドなど、悪い化学物質が出てきます(新建材で大きく問題になったものと同じ物質です)。これによって作品はベニヤ板の木目がくっきりうつるほどかなり濃い茶色になってしまい、これを取るためには非常に悪い薬を使わないといけませんので、私の場合は悪い成分を洗い流すだけにします。
 今回の展覧会の出展作品の中にもこうした悪い状態のものがたくさんあります。中でも紙や布を張って、上等のマット紙を使っているんですね。この場合はマット紙の中にベニヤ板が入っています。そうすると裏も表もベニヤ板にサンドイッチにされて、その中で作品は泣いているわけです。さらにビゾ(biseau)といいますが、美しく見せるために窓の部分を斜めに切って、斜めのところにシルバーやゴールドに輝くものが塗ってあります。あれがまた非常に悪いもので、鉛などがいっぱい入っているんです。おそらくマットを取りますと、くっきりと茶色に窓の形が付いていると思います。ですから展示するとき以外は、額から出して保存しておくのが一番いい方法だと思います。

岡崎  作家の立場から修復の問題を考えたとき、ちょっと複雑なところがあります。僕も最初に作品を発表してから二十年くらい経って、そろそろ修復もしなくちゃいけないとなる。そうすると厄介な問題が一つあって、自分自身の作品を修復するのは非常に嫌なものなんですね。というのは直したくなるんです。これがもし原稿だったら直してもいい。知り合いの作家で、出すたびに書き直して、そのたびに「定本」なんて言って、直し続けている人がいますが(笑)。画家も同じように、今だったらこうできるとか、直したくなる。ところがもちろんそうしてはいけない。そうすると「作品を決定するのは誰か」という問題が出てきます。「作家が作品とするものは作品なのだ」、つまり作家が好きなように直していいんだとしてしまうとどうなるか。作家が生きている限りは本人の判断で、「定本」なんてつけてもいいとして、いつか作家は死んでしまうわけです。死んだところで作品が「決定稿」ということになり、いずれにしてもどこかで作品は終わってしまいます。
 現代美術と修復は一見矛盾するようですが、どんな現代美術の作家であろうと、修復ということで面白いのは、「作品はどこかで作品として完成する」という概念が含まれているということです。「完成」とは一体どういうことなのか。繰り返すと、作家本人がこれで完成と決めたいにもかかわらず、じつは本人は決定できない。というのはさっきの二つの考え方があって、一つが、修復を受け入れるときには既に発表したときの形態に戻してくれ、ということになるわけですから、自分でその作品の完成作を決定できない。もう一つは、かなり傲慢な、偉い芸術家になって好き放題直してもいいようになったとしても、結局のところ、最後に作品を決定するのは「死」なんですね。作者が作品の完成を決定できないことが、修復の問題が僕らにふりかかるたびに意識されてしまうわけです。
 デュシャンに話を戻すと、じつはデュシャンが最初にレディ・メイドと言ったとき、メモには"already finished"と書かれていた。既に完成したものだ、と。これがなかなか面白いと思うのは、修復ということを言われたとき、たとえ作家が自分の作品を未完成だと思っていても、それはalready finishedで、それを直せって言われるわけです。つまり作家にしてみれば、自分の作品がレディ・メイドとして立ち現われるという経験をさせられるわけです。
 それからもう一つ言うと、レディ・メイドの作品は大量生産の商品のようなものが多いので、いくらでも複製されます。しかし修復されるものは大量生産であってはならず、唯一のものでなければならない。例えば、今ここにあるペットボトルを修復する。普通は経済効率というものがあって「新しいのを買えばいいじゃないか」となります。でも僕がこのエヴィアンを作品として提出したとすると、「同じものを買えばいいじゃないか」と思っても、谷村さんみたいな修復家が「これは糊とかセロテープが使われているから」と言って、四カ月くらいかけて直す(笑)。そうすると明らかに修復とレディ・メイド、それとレプリカとのあいだにズレがあって、そのときに完成されたものは、明らかに修復されて維持されていなくてはならない唯一性がどこかに残っていると言われます。
 僕に言わせればここが一番面白いところで、一番近いのは、日常的な経験にある「契約」です。第三者と契約をする、文書を交わす。契約書を書いた本人でも、その契約書を勝手に書き換えることはできない。つまり自分の意志だけではできなくて、必ず承認が必要で、相手が要る。複数の人間で契約を交わしているわけです。もしかすると、これと修復の前提となる完成作の作品は似ているのではないか。というよりも、美術館で取引された作品に対しては、あからさまに文書が存在したりして、まさに「契約」なんですよね。
 さらにデュシャンを例にとって言うと、《大ガラス》はずっと未完成で制作過程にあった。それがあるとき二つの理由で「完成」になった。平芳さんも説明されましたが、一つが展覧会で発表されたこと。もう一つは作品が壊れて、その作品をデュシャンが修復したことです。つまりデュシャンが修復作業に入った途端に今まで進行過程にあったプロセスが停止して、後ろ向きになった。これはかなり重要なポイントだと思います。作品の発表と修復によって《大ガラス》は完成したと言えます。現代美術の場合、よく語られる例が「もの派」の作家たちで、彼らの作品は一回限りのものですが、それが展示されて雑誌に載った。有名な話を挙げると、菅木志雄さんが多摩美時代にパラフィンで作った作品があります。非常に微妙に歪んでいて、それを僕らは美しいと思ったわけです。ところが菅さんはミニマルにぴったりにしたかったらしい(笑)。それで「もの派」展の際にぴったりなものに再制作して、「思ったとおりできた」と菅さんが言ったら、抗争が起こった(笑)。「発表した写真通りにしてほしい」と。この場合、写真で発表したことが一種の契約書代わりになってしまったわけです。
 そうすると、「発表」は、「契約」と同じことになる。そして一度発表された後に再制作することは、菅さんの例では不可能だったわけです。キュレーターたちが直して欲しいと言ったんですね。つまり修復しろと(笑)。この例から分かるとおり、作品の「制作」と「発表」のあいだに、微妙な時間的ズレがある。簡単に言うとこれがリプレゼンテーションということですが、既に作ったものをもう一度再確認して再表象することがその中に入っています。それ以降、作品をメンテナンスするということは、言わば家賃を契約更改していくような作業なんです。
 最後に、現代美術の美術館、つまり現代美術を展示すること自体が、じつはきわめて変なんです。今はコンテンポラリー・アートとか二十一世紀美術とか名称は変わっていますが、現代美術とは、モダニズム以降特権的に現在性というものを優位におくということです。ところがこの現在性の美術館というのは、現在性そのものを示しつつ、それを再現・再確認するものです。つまり「現在性である」と言った途端に過去になってしまう契約書にサインしたようになってしまいます。これを「延命装置」ということと結び付けて、具体的に自分の身に当てはめてみると、作家の立場からすれば、サインをして発表することは、それは終わったと、「死」を受け入れることなんです。作品は他人の手に渡って、(例えばもしこれがテクストであれば)既に書いた、かつて書いたテクスト、本当は自分が書いたにもかかわらず、遺言のごとく、他人が書いた言葉のように、「死者となった自分」を扱ってしまう。そういう他者性が入り込んできてしまうわけですね。
 さらにこの場合の「死」がどこで確認されるか。やはりデュシャンの例を挙げると、《モナリザ》に髭を書き加えた作品を一九一九年に出しているんですが、これ(スライド)は、死ぬ直前にMoMAで大きな回顧展があったときの、《髭を剃られたモナリザ》というタイトルの、作品ではなく展覧会の招待状です。これを修復という点から考えると、かつて《モナリザ》に髭がいたずら書きされて破損されたものが修復されたと見るか、なんだただの《モナリザ》かと見るかですね。結局のところかつての状態、つまり元々の《モナリザ》もしくはデュシャンが髭を生やした《モナリザ》を作ったという状態、この二つのうちどちらを基準にするかによって、これが修復なのか、レディ・メイドなのか、判断が揺らぐんですね。
さらにこれが招待状であるということはかなり大きな問題です。これはデュシャン展の招待状だったわけです。そうするとデュシャンは、美術館に作品を展示する、あるいはそこで作品を見るということが、まさに契約を交わすのと同じように、「見る」と「作る」という個人的な契約を交わすことだと考えていたと思います。じつは彼は美術館を非常に嫌悪した人で、一般大衆に理解されることを忌み嫌い、秘密結社みたいな美術館を作りたいと思っていたのです。この招待状を受け取った人が一般大衆だということが、まず崩壊[?]しています。つまりこれをデュシャンの作品を知っている人が受け取る場合と、知らない人が受け取る場合とでは意味が違う。知らない人は、「よくわからない前衛芸術の神様って言われている人がMoMAでやるんだってよ」と言って、招待状を見ると《モナリザ》がある。「ふざけるな」と思ったかもしれないですね。スキャンダルがまた起こるわけです。ところがデュシャンを知っていた人はほくそ笑む。この場合の修復とは、契約の話に戻しながら言うと、作品はどこで完成されるかと言えば、発表されたとき、たしかにここに作品がありますよと、ちょうど契約書を交わすように、見る人と作った人がそこで握手をする時点で決定されるわけです。言い換えればそこでようやく、参加した人たちをはずして、客体として完成という概念が成立します。つまり共同体的というか、社会的というか、契約書に調印した人たちの中で、修復という概念が維持される。これは修復ではなく「儀礼的なもの」である、ある共同体が一度交わした「完成」という概念を延命、つまり繰り返し再契約するための儀式なのではないでしょうか。
Copyright©MarioPerniola,2004
Translated from the italian by Hideki SABAE
Published in “Communications” (Tokyo) n.52, Spring 2005

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