Monday, 23 April 2018 06:00

Restauration of Contemporary Art 4

Symposium 2004 Osaka
岡田  とりわけ現代の芸術と社会の状況を、ペルニオーラさんならではの広い美学的、哲学的視野から鋭く分析いただいたと思います。日本の現代、あるいは近代性をめぐる問題に関しては、反論がある方もいらっしゃるかと思います。ただおそらくペルニオーラさんは、モノというよりよりもフォルムや形式を伝えてきた日本のあり方を、西洋に対するオルタナティヴとして見ているのではないかと、個人的には思いました。例えば華道に象徴されるように、フォルムが儀礼や儀式(セレモニー)というかたちで伝わっている。それはある意味では、コジェーヴのいうポスト・ヒストリーの中で生き残る日本的スノビズムなどともつながってくるのかなという感じがしました。
ディスカッション
岡崎  ペルニオーラさんのお話は共感できるところが多くありました。現代美術とフェティッシュの話はとても面白かったです。フェティッシュとは何かということだけ、僕の言ったこととつなげて言いたいと思います。
 ペルニオーラさんは、「瓦礫」と言われましたが、僕も賛成です。それをデュシャン的な言い方を用いて、ペルニオーラさんはレディ・メイドと呼んでおられます。さらに僕はレディ・メイドの元の原語はalready finished、つまり「お前はもう死んでいる」だと言いました(笑)。「お前はもう死んでいる」という状況から、再度何かをはじめるときのやり方がたぶんあって、それがどういうやり方なのか、というのが今日の話の中心です。そのときに重要なのはおそらく「契約」ということだと思います。
 例えば千利休がやったことというのは、ペットボトルのようなガラクタを持ってきて、「これはいい」と推薦するわけです。そうすると、ペルニオーラさんが批判されたとおり、このガラクタは突然値段が上がるわけですね。なぜ上がるかというと、そこで契約が成立しているからです。客と利休が承認して、「これはいいものだ」と。これは決して利休が一人でやったことではありません。
 利休と同時代の西洋、ペルニオーラさんのご専門でもあるバロックの時代に、今話したようなことが起こったのではないかと思うのです。これはステファノ・マデルノの《聖チェチリア像》(一五九九)です。彼がこの彫刻をどうやって作ったかというと、当時から一六〇〇年近く前に死んだ聖チェチリアの遺体が、ほとんど腐らないで発見されたんです。それをマデルノだけが見て、複製することを許されたといいます。つまり死んだ人を模した彫刻ですね。嘘か本当かはわかりません。しかし信憑性がかなりある。なぜならばマデルノはこの彫刻以外は駄作だからです(笑)。そしてマデルノ自身はこれを自分の力によって作ったわけではなく、自分は「目撃者」であるという言い方をしているんですね。
 この作品はバロックの彫刻にかなり影響を与えたと言われています。例えばこれはバロックを代表する彫刻家ベルニーニの《ヘルマプロディト》で、ルーヴルにあります。これはまさに修復ですね。マデルノのやり方を真似して、ベルニーニはalready finished、「死んだ状態」から拾ってきて、この彫刻を作りました。しかもヘルマプロディトは両性具有なので、デュシャン的にも興味深いのです。本当はこの部分は水面なんですが、ベルニーニはこれをベッドに代えて、そのベッドの部分だけを作ったんですね。ベルニーニはこうしてレディ・メイドのように再度採り上げることで、この彫刻を作りました。バロックの彫刻や文化は、基本的に画家一人のイマジネーションで作るのではなく、既にあるもの、already finishedなものを採り上げて、まさに日本の利休がやったようなことをしていました。
 もう一つ例を挙げると、これはロレンツォ・ロットの作品《題名??》です。これは上下二つに分かれていて、上の部分はalready unfinishedです。この部分には何の絵も描いてなくて、ここにいるのがロット本人だと言われています。この絵は奇妙にデュシャンみたいに二つに分裂しているわけですが、この下、品評会を表わしたような部分は、イエスが生まれてきて、ユダヤ教会の中で神殿奉献する場面です。ところがご存知のようにイエスははじめから受胎告知されているわけですから、プレゼンテーションする必要はないわけです。しかしここに敢えて世俗的な教会をもってきて、この異様な品評会のような光景を見せようとしている。そしてこの上と下の部分は、時間が当然違います。ここには三つの時間があると言ってもいい。画中に描かれたロットはこれから絵を描こうとしている。それは当然下の(品評会の)主題を上に、つまり違う時制のもの、既に一五〇〇年前に終わったものを、まるで現在形で書けと命令されているようです。ところがこの絵は完成してしまっているわけですから、それ自体もう終わっているんです。つまり上と下の絵、二つの時制の違いが、この場面の中で結び付けられて「契約」しているという構造なのです。
 しかしながらこれが可能かどうか。このあたりが僕がロットを好きな所以ですが、彼が描いた最も名高い絵は《受胎告知》です。デュシャンの作品も総じて密室で行なわれていて、密室で起こったことを観客が見て承認することによって、作品が成立します。もしくは既に作られているレディ・メイドをデュシャンが再承認することで完成するという仕組みをもっています。そもそもそういう主題は、[西洋美術史の中で?]タブローとして完成したとき、突然受胎告知の絵が多く描かれ始め、受胎告知の絵は「画家のアトリエ」という主題に引きずられるわけです。ロットがここで描いているのは、絵がすべての人間に承認されたものとしてあるわけではなく、承認されなかった、つまり流産して完成されなかったかもしれないという可能性もあるということです。《受胎告知》には、受胎告知をマリアが拒否する可能性が描かれています。この絵には受胎告知が起こっていない。《受胎告知》をうけて、ロットが死ぬ間際に《題名??》が描かれたと考えています。主題としてはそれを反復しているわけです。
 少し話が飛びました。僕も「儀礼」と言いましたし、ペルニオーラさんに基本的に賛成なんですが、ロットの絵に見られるように、絵を作る、作品を完成させるというのは一種の儀礼的なことです。そして儀礼は一人でやることではなく、複数の人間のあいだで承認や契約することと関わっています。ところが契約が契約であるのは、それが破綻する可能性、まさに作品が瓦礫と化す可能性が含まれているから成り立つわけです。例えばウォーホルの作品が暴落する(これは確定していますが)という可能性もあるわけです。
 最後に美術館の話をすると、生きているものだろうと、赤ちゃんだろうとなんだろうとすべての現代美術は、プレゼンテーションの代理となるなら、美術品になって登録されます。しかしそれは何でも本当に可能かどうか。もしくは一度それがなされたとしても覆される可能性もある。それが維持されるかどうかは、まさに利休の権威が維持されるかどうかの問題です。ペルニオーラさんのおっしゃるとおり、「維新」という意味では、その契約を通してしか確認できない事態、それは端的には過去、一五〇〇年前の出来事であったり、同じ岡崎であれ二十年前の僕は、その作品を通してしか確認できないものであるわけですが、それを通してしか取り返しのつかないもの(つまり死)は、だからこそ嘘や贋物であることが暴露されるなど、その契約自体が破綻する可能性があるがゆえに成立するわけです。この不確実性があるがゆえに契約というものが価値をもちます。もし確定的なものだとすれば、作品は出来事として、ペルニオーラさんの言うとおり、一回しか起こらなかった出来事性が確保されません。この出来事性は、不確実なこと、もしかしたら完成しなかったかもしれない可能性の中でしか確保できないものです。
  ペルニオーラ  契約というのは、作品制作ではなくて、修復という上でのものでしょうか。
岡崎  そうです。修復という作業自体が契約を前提としているということです。観衆との契約がなければ、修復は成立しない。
ペルニオーラ  修復家や芸術家と公衆との契約関係ということでお話を申し上げますと、一九七〇年代まではこうした契約関係が成立していましたが、それ以降は公衆というものがそこから排除されてしまって、契約というものは、芸術家と制度、あるいは芸術家と美術館だけで交わされるものになりました。
 こういった公衆と芸術の分離に関して言えば、最近のヨーロッパでは敢えて公衆に対する注意を振りかざすというかたちで、例えばパブリック・アートというかたちで分離を乗り越えるという動きがあります。しかしパブリック・アートという言い方で意図されるものについても考えなくてはならないでしょう。
 芸術と公衆との関係について言えば、アヴァンギャルド芸術は公衆に対してスキャンダルやショックを与える機能をもちえました。最近ではそうしたスキャンダルを与える機能は、芸術ではなくマス・メディアにとって代わられています。そういう考え方に従えば、ビン・ラディンこそが最高のアーティストということになるわけですが、こういう点にも乖離を垣間見ることができます。
岡田  ちょうど私の前にいらっしゃる浅田彰さん、何かありましたら一言お願いします。
浅田  岡崎さんの話について言うと、already finished、「既に終わっている」というところから、ではその瓦礫をどうリサイクルするかで、ある種契約ということが問題になると。そしてそれが閉ざされたコミュニティの儀礼にすぎないのか、あるいは他者に向かって開かれた非決定的な契約でありうるのか、ということが決定的な問題だと思うんですね。
 それでデュシャンに話を戻すと、《大ガラス》が一回放棄され、事故に遭う、そして修復されることで、彼はこれでこの作品はdefinitely unfinished、つまり決定的に不決定な状態になったと言っています(笑)。つまりdefinitely unfinishedとalready finishedの両方が同時にあるのがデュシャンの面白いところで、「既に死んでいる」レディ・メイドだけを芸術ゲームの中で適当に動かしていけばいいというだけであれば、それはペルニオーラさんの批判されたような、パラ政治的、パラ社会的なゲームになってしまうんだけれども、そのalready finishedなものが、にもかかわらずdefinitely unfinishedである、つまりヴァーチャリティにおいて非常に多くのものを含んでいるという点が面白いのではないかと思います。ただしこれはいい加減なコメントです。
 それからペルニオーラさんの発言について言うと、非常によく纏まったレクチャーで、三島由紀夫に関する部分も含め、ほとんど同意できます。しかしこのようにちゃんとしたレクチャーをできる人が、最後に日本に関わる部分でこんなに凡庸で表層的なクリシェに陥ってしまうということが、オリエンタリズムの恐ろしいところだと思います。つまりペルニオーラさんは日本に関して何かものを考えてらっしゃるつもりだと思うんですが、じつはオリエンタリズムの紋切型産出機械に身を晒しているだけで、何も考えていない。
 日本であれヨーロッパであれアメリカであれ、「自己と他者の切断を超えて関係性に戻ろう」とか、「過去・現在・未来の切断を越えて、核心がまだ復古であるようなものを目指そう」とか、そういうことを言うバカはどこにでもいるわけです。バカは放っておけばいいのです。この国においてもまじめな人は、ペルニオーラさんがヨーロッパに関して指摘されたまったく同じ状況、アポリアに直面している。何かこの国あるいはアジアに、別のモダニティの可能性を見出そうと思っていらっしゃるのであれば、残念ながらその可能性はまったくない。その可能性のなさを共有することからしか、対話は始まらないと私は思っています。
岡崎  僕はペルニオーラさんを擁護します(笑)。確かに浅田さんの言うとおりだと思いますが、そうすると、日本には契約概念がないわけです。僕が言いたかったことは、スキャンダルが前提にないと契約は成り立たないということです。はじめから共同体的に閉じて同意が取れている場合には、契約という概念はできない。ペルニオーラさんが、最近のヨーロッパではそうなってしまったとおっしゃいましたけど、公衆が契約の場面から排除されて、知らない間に同意が成立していくようにみえてしまう。これによって現代美術館が権威をもってしまうという逆説が起こってしまいます。しかし現代美術は、スキャンダルの場だから面白いのだと思います。常に「潰せ」という騒ぎの中にあるから、現代美術館に人が行くわけですね。例えばブルックリン美術館でものすごいスキャンダルが起こった。この美術館は人が来なくて潰れそうだったんです。ところがニューヨーク市長が「この美術館を潰せ」と言った途端に、そのスキャンダルによって人が集まってきて、「絶対潰さないぞ、どんどんスキャンダルをやれ」ということになった。  というわけで、利休は相当スキャンダルなことをやっていましたが、日本では、契約ということ自体が欠けていると言えます。
ペルニオーラ  浅田さんのご意見に対して申し上げたいことは三点あります。
 一つは、私の念頭にあったのは、西田幾多郎や西谷啓治が目した「近代の超克」ではなく、違う近代性があると言いたかったという点です。第二点は、日本人論と呼ばれる議論の中では、日本の独自性、唯一性が喧伝されるわけですが、そうではない日本文化がもちうる普遍的な価値を考えてみたいと思いました。こうした二種類のタイプのオリエンタリズムを区別することを意図していました。
 もう一つは、日本の歴史を顧みますと、平安時代から中国の影響があったように外的影響を変容させてきたということができます。そうした点を考えると、制度や個人に陥ってしまうヨーロッパというものを見直す契機となるのでないかと思いました。もちろん非常に大きな問題ですので、ここで語りつくすことはできませんが。
浅田  さきほどペルニオーラさんに非常に厳しいことを言ったので、突然ペルニオーラさんに歩み寄ると、一九九二年に磯崎新さんと僕で、ジャック・デリダを京都と九州に呼びました。十月に彼が亡くなったので、その思い出を兼ねて言いたいのですが、デリダと伊勢神宮の話をして、「これは二十年ごとにリビルディングされる建物なんだけど、歴史的にきちんと追っていくと、中断されたこともあるし、もしかしたら違うかたちになっているかもしれない、そういうことも含めた上でのリビルディングなんだ」と言ったんですね。そうするとデリダは「ディコンストラクションも結局はリビルディングだ」と言ったんです。ここであえてディコンストラクションとは「修復」だと言ってもいいと思います。平芳さん、谷村さん、岡崎さんの言った意味で。ペルニオーラさんも含めて、修復の問題を技術的な問題として語っているかに見えて、しかしながらここにいるパネリストの方たちは一貫してディコンストラクションについて語っていたと私は理解します。
谷村  今の浅田さんのお話、私はものを扱う側にいるので、言ってらっしゃる内容の難しい部分はわからないんですが、日本の保存・修復ということは、ディコンストラクションというだけではなくて、その中に使われているすべての材料や技術の保存がとても大切なことなんです。ヨーロッパの保存・修復は、オリジナルを保存することが大事で、オリジナルについていた傷までずっと残していこうとしますが、日本の場合、材料や技法、そういったもの全部を再現したいという考えが強いんです。ですから伊勢神宮であれば、それが太古の昔に作られた時代にあったすべて、概念も含めてすべていっしょにもってきたいんです。そうした面を考えると少し違うんではないかと思います。
岡田  議論が沸騰してきて、非常に面白くなりかけたところなんですが、時間が来てしまいました。最初に申しましたように、このシンポジウムで何か結論めいたものを出そうという気持ちはまったくありません。現代美術の修復・保存をめぐる問題は、じつは現代美術だけでなく、現代の文化や社会を考える上でとても重要だということを何らかのかたちで認識していただければ、この会の意味はあったのではないかと思います。どうもありがとうございました。
(二〇〇四年一二月四日、国立国際美術館)
※ このシンポジウムは、国立国際美術館で開催された「マルセル・デュシャンと二十世紀美術」展の機会に、国立国際美術館と京都大学の岡田温司研究室の科研費(日本学術振興会科学研究費補助金?)研究との共同主催で実現したものです。掲載をご快諾いただきました国立国際美術館と岡田研究室に感謝いたします。
Translated from the italian by Hideki SABAE
Published in “Communications” (Tokyo) n.52, Spring 20

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